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【2024/04/20 02:01 】 |
伏見城の戦い
伏見城の戦い (ふしみじょうのたたかい)は、慶長5年(1600年)7月18日から8月1日まで行なわれた関ヶ原の戦い の前哨戦。 略歴 背景 豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う徳川家康 は、慶長5年、度重なる上洛命令を無視した上杉景勝 を公儀に反抗する逆臣として征伐すると称し、会津攻めを開始した。すでにこの前年には、家康と並び称された親豊臣派の大老・前田利家が病死しており、五奉行の石田三成 ら反家康派も失脚していた。家康は畿内の守りとして、譜代の家臣である鳥居元忠 、内藤家長、松平家忠、松平近正ら1800名ほどの兵を伏見城に残すに留め、徳川軍主力を率いて会津攻めに向かう。畿内に軍事的空白が生まれたことを好機と見た石田三成 は、毛利輝元 宇喜多秀家 大谷吉継 ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵し、7月17日、家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を叩きつけた。翌7月18日には、西軍総大将である毛利輝元 の名で、伏見城の守将・鳥居元忠 に対して伏見城を明け渡すように命令が出された。家康に死守を命じられていた元忠はこれを拒絶し、西軍は大挙して伏見城を包囲、攻撃を開始した。 伏見城の戦い 伏見城攻めの総大将は宇喜多秀家 、副将は小早川秀秋で、その他に毛利秀元、吉川広家、小西行長 島津義弘 長宗我部盛親 長束正家 、鍋島勝茂などが攻城側に参加し、総勢4万人の大軍であった。これに対して、守備軍は鳥居元忠 を総大将とした1800人であった。伏見城は豊臣秀吉が築き上げた巨郭であったが、兵力差から考えれば短時日で決着するはずの戦いであったが、攻城側は苦戦を強いられた。城将の鳥居元忠 とその兵達が予想外の奮戦を見せ、また包囲軍の内部にも三成らに強制的に西軍として与させられた者がおり、戦意が上がらなったなどの要因があったためとされる。 状況を打開するため、島津義弘 は配下の長束正家 に伏見城内にいた甲賀衆の妻子一族を捕縛させ、内通しなければ家族を磔にすると脅迫することを命じた。正家は近江水口岡山城の領主であったため、甲賀衆とも親しい仲にあり、伏見城内には徳川氏の伊賀衆の他に甲賀衆もいた。甲賀衆はこの脅迫に応じ、伏見城内に火事を起こした。この裏切りによって支えきれなくなった元忠は8月1日に討死し、伏見城はようやく落城した。 影響 この戦いは、9月15日に行なわれることになる関ヶ原本戦の前哨戦であった。本来なら数日で落とせたはずの伏見城に10日以上もの期間をかけたため、西軍のその後の美濃・伊勢方面に対する攻略が大きく遅れる要因となったとされる。 また、徳川家康 鳥居元忠 らわずかな守備兵を伏見城に残して会津攻めに向かったのは、石田三成 ら反・家康派を挙兵させる狙いがあったからだとも言われている。事実、家康は7月18日の時点ではまだ江戸城にあり、7月21日になってようやく会津に向かって進軍を開始していた。 ふしみしようのたたかい 戦ふしみしようのたたかい ふしみしようのたたかい ---------------------------------------------- 出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01) Text is available under GNU Free Documentation License. [伏見城の戦い ]の改定履歴

■コシャマイン 安芸武田氏 安国寺恵瓊 安達泰盛安東愛季 安東氏 安東政季 安藤守就 安藤盛季 安日彦 安倍貞任 伊達行朝依田信蕃一色義貫 一色氏稲葉一鉄 宇喜多直家 越前朝倉氏 遠山景任 奥平貞昌 下間頼照 河尻秀隆 河田長親 河内源氏岩成友通 吉良氏吉良満氏金森長近 九戸政実穴山信君 原田直政 源義家源義光源義康源義国源義朝源光行源頼義源頼朝戸田康光 後村上天皇 後醍醐天皇光明天皇甲斐源氏荒木村重 高山右近 高師直今川義元 今川氏今川氏真
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【2012/02/14 05:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
十河氏
十河氏(そごうし)は日本の氏族。
讃岐国の土豪であり、讃岐に下った神櫛王の流れを汲むと称する植田氏の一族である。神内氏、三谷氏と共に植田党の一角を形成した。
南北朝時代以降、四国においては守護大名細川氏による在地国人の被官化が進行し、十河氏ら植田党もその傘下となる。
戦国時代には細川氏の内乱(永正の錯乱)に乗じて三好氏と結び、讃岐守護代であった香西氏などと抗争しつつ勢力を拡大。後に甲斐源氏の流れを汲む阿波小笠原氏一族の三好長慶の弟(十河一存)が十河氏を継ぐことにより三好一門となる。一存は勇猛で「鬼十河」の異名を取ったが、落馬により1561年に急死。一存の兄三好義賢の子(十河存保)がその跡を継ぐ。
存保は讃岐を支配していたが、義賢の嫡男である三好長治が反乱により自刃し、阿波が混乱すると、三好氏の家臣の要請により阿波も支配するようになる。存保は上洛を果たした織田信長に降り勢力を保持しようとしたが、四国統一を目指す長宗我部元親の侵攻を受けるようになる。従属先の信長が1582年に本能寺の変で急死、さらに中富川の戦いなどで元親に連敗した存保は阿波勝瑞城や讃岐十河城を失う。秀吉の援軍を引田の戦いで破った長宗我部氏の勢いはとどまることを知らず、窮地に追い込まれた存保だが、柴田勝家を破り四国征伐に本格的に取り組みはじめた羽柴秀吉の助力を得て抗戦。秀吉は元親を降伏させる。秀吉と共に戦った存保は所領を安堵された。
その後秀吉の九州征伐軍に参加。1586年に豊後国の戸次川で島津家久と交戦したが(戸次川の戦い)、軍目付の仙石秀久の失策により存保は討ち死に。遺児千松丸も生駒親正の保護下において1589年に謎の急死を遂げた。
最後に残ったもう一人の遺児存英も大坂夏の陣にて戦死し、十河氏は滅亡した。
四国の覇権を巡って争った十河氏と長宗我部氏は、秀吉に臣従した後の戸次川の戦いで十河存保と長宗我部元親の長男信親が戦死、30年ほど後の大坂夏の陣でも存保の子存英と元親の四男盛親が秀吉の子秀頼に殉じるという繰り返された歴史に皮肉が感じられる。
外部リンク

武家家伝_十河氏
*そこう そこう *
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国合戦一覧

?■二俣城の戦い
三方ヶ原の戦い
木崎原の戦い
槇島城の戦い
一乗谷城の戦い
越前一向一揆
高天神城の戦い
長篠の戦い
四万十川の戦い
七尾城の戦い
第一次木津川口の戦い
第二次木津川口の戦い
上月城の戦い
三木合戦
御館の乱
武田征伐
本能寺の変
山崎の戦い
中富川の戦い
賤ヶ岳の戦い
小牧・長久手の戦い
紀州征伐
四国征伐
上田合戦
河原山城の戦い
戸次川の戦い
肥後国人一揆
大崎合戦
摺上原の戦い
小田原の役
文禄・慶長の役
閑山島海戦
晋州城攻防戦
碧蹄館の戦い
庄内の乱
関ヶ原の戦い
会津征伐
伏見城の戦い
木曽川・合渡川の戦い
慶長出羽合戦
大津城の戦い
松川の戦い
大坂の役
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
浦上氏
浦上氏(うらがみし 「うらかみ」と言う説もある)は、武内宿禰系紀氏の流れを汲むとされる。紀長谷雄または紀貫之の子孫であり、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)が苗字の地である。武家としては赤松氏とともに発展し、後に下克上を行い戦国大名としては、播磨・備前・美作に勢力を伸張した。
なお江戸時代に、堀田家は浦上氏と同族とする仮冒系図を作成したが、これは室町時代の名門・浦上氏の威光を借りたものと類推され、堀田家とは別系統と考えるべきである。
発展

鎌倉時代末期、播磨から赤松則村(円心)が史上に現れた際には、浦上氏もその活躍の一翼を担い、鎌倉幕府の倒幕にも参加している。ちなみに浦上氏の名が書物にあらわれるのは、『大徳寺文書』にみられる為景なる人物が最初である。大徳寺の開山は大燈国師で知られる宗峰妙超で、浦上掃部入道覚性(一国ともいう)の子と伝えられている。宗峰は同郷の赤松則村の帰依を受け、正和4年(1315年)、洛北紫野に小堂を建立した。これが大徳寺の起源となり、正中2年(1325年)、花園天皇は大徳寺を祈願所とする院宣を発している。後に後醍醐天皇から播磨国浦上庄を寄進された宗峰は、浦上庄の半分を一族に分配することを申し出て許され、為景が天皇からその旨の綸旨を賜ったとのことである。
南北朝時代には、赤松氏は後醍醐天皇を中心とした建武の新政権を見限り、早くから足利尊氏に従った。尊氏が幕府を開くと、則村は播磨守護に、長子範資は摂津守護となった。おそらくこの頃に、守護赤松氏とその被官浦上氏と言う形での主従関係が成立したのではないかと思われる。 貞治元年(1362年)、山名時氏が備前に侵攻した際には、備前守護松田信重が浦上行景と共に防戦したことが『太平記』に記されている。やがて則祐が備前守護に補任されると、行景は守護代に任じられた。このことが、播磨を本領としていた浦上氏が隣国の備前へ勢力を伸ばす足掛りともなり、以後浦上氏は赤松氏の有力被官として活躍することになる。行景の後は、助景が守護代を継ぎ、赤松氏の被官としてその支配に尽力していたようである。赤松義則が幕府の侍所頭人に就任すると、助景は所司代に取り立てられている。しかし応永15年(1408年)、助景は伊勢国山田において誅殺されている。(この年には、第3代将軍足利義満が死去しており、政変に巻き込まれた可能性があると思われる。)その後の所司代には浦上性貞が就いている。
赤松氏は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱を起こし没落するが、この時には浦上宗安、則永らがともに幕府方となった山名氏の軍勢と戦っている。その後小寺豊職をはじめとする赤松氏の遺臣たちは、満祐の弟義雅の孫赤松政則をもりたてて主家再興を企画し、ついに長禄元年(1457年)、政則は家督相続を許された。応仁の乱では浦上則宗が赤松政則とともに東軍の細川勝元に属し、赤松軍を率いる主将として活躍した。応仁の乱後、赤松氏が播磨・美作・備前の三国の守護となると、則宗は備前守護代となっている。文明3年(1471年)政則が侍所の所司に任ぜられると、則宗が所司代となり実務を司った。文明13年(1481年)、山城守護に補任された政則は則宗を守護代とするなど、ここに浦上氏の権勢は大きく伸びることになる。
しかし乱後の影響が赤松氏の領国にも及ぶこととなり、文明15年(1483年)11月、備前御津郡金川城主の松田元成が、山名氏と結んで備前福岡を攻めた。赤松政則は但馬の山名氏を攻撃する戦術をとったが、但馬守護山名政豊に大敗し播磨は乱戦模様となった。この結果政則の権威は失墜し、政則は和泉へ逃れている。浦上則宗は小寺則職・中村祐友・依藤弥三郎・明石祐実らの諸将と図って、五人の連署で赤松刑部大輔(有馬則秀)の子慶寿丸に家督を継がすよう画策も行っている。しかし足利義政の仲介により、政則と浦上氏らは和解し、文明17年3月から山名氏との播磨を巡る攻防に入った。坂本城を拠点とする西播磨の山名氏と、長享2年(1488年)7月に勝利するまで五年間に渡り対峙した。やがて播磨・美作・備前を回復した政則は、第10代将軍足利義材の軍奉行となるなど活躍し、明応2年(1496年)従三位に叙せられている。
赤松政則の死後、その養子である赤松義村は、浦上氏などに支持される形で、播磨・備前・美作の守護に就いたが、義村は自立の機会を伺っていた。浦上則宗の子(養子・孫ともいう)守護代浦上村宗は、永正15年(1518年)義村と対立し居城の三石城に退去した。しかし義村は守護の権威をもって村宗の討伐を企図し城を囲んだ。村宗は主家からの攻撃に狼狽したが、重臣の宇喜多能家らの支えにより攻城戦を乗り切った。しかし翌年の永正16年(1519年)には義村は再度兵を起こし、浦上氏に対抗する有力家臣である小寺城主小寺則職を主将として美作の浦上方の諸城を攻撃させた。赤松勢は浦上勢を圧倒し義村の目的は達成されるかに思えたが、やがて則職の軍は打ち破られた。逆に村宗は播磨に攻め入り義村を捕らえ、窮した義村を隠居させた。その後義村を幽閉し殺害した(1521年)。これにより名目的にも実質的にも、播磨・備前・美作の支配権を得て戦国大名への道を歩み始めた。
だが村宗が享禄4年(1531年)6月、天王寺の戦い(大物崩れ)で討死する。嫡子である浦上政宗は未だ幼少の身であったが浦上国秀など一族の有力な家臣の補佐もあり、無事に元服を果たす。その後、尼子詮久(後の晴久)によって一時期所領を失うも機を見て復帰し播磨、備前の2国を回復。ここに至る戦いの中で発言力を強めていった政宗は赤松氏筆頭家老にまで登り詰める。 しかし天文20年(1551年)、再び兵を率いて備前侵攻に際して政宗と弟の浦上宗景は真っ向から対立。政宗は播磨国室津に、宗景は備前国天神山に根拠を置いて、以後10年にわたり対立し、浦上氏は大きく分裂することになった。政宗は播磨守護代として実効支配を行い赤松氏を傀儡としていたが、永禄7年(1564年)に赤松政秀に襲撃され滅んだ。一方弟の宗景は、備前・美作一帯に一大勢力を築いて、また織田信長と誼を通じるなどして、再び家勢を盛り返した。宗景は、信長には領国の安堵を受けたが、台頭してきた重臣の宇喜多直家と不和となり、毛利氏と結んだ直家は浦上久松丸を擁立して天正3年(1575年)に宗景を打ち破り播磨国に追放した。ここに戦国大名としての浦上氏は実質的には滅亡した。久松丸はまもなく直家に毒殺され、また宗景は黒田長政を頼り筑前国で没したとされる。
主な浦上一族

浦上則宗
浦上則永 則宗兄
浦上宗助 則永長男
浦上村宗 宗助長男
浦上宗景 村宗次男
浦上成宗
浦上政宗 村宗長男
浦上清宗
浦上誠宗
浦上久松丸
浦上国秀 則国一族?
主要家臣

島村盛実
中山信正
宇喜多能家
宇喜多興家
宇喜多直家
系図

(斜体の人物は養子)        為景         ┃        行景         ┃         助景         ? (関連不詳)         性貞         ┃         掃部                (不詳)         ┣━━━━━━┓           ┣━━┳━━━┓                         則永     則宗          基景 豊前守 基久         ┣━━━┓  ┣━━┳━━┓     ┃      ┃         宗助  則久 則景 則国 祐宗    基政     宗茂            ┣━━━┓         村宗  宗久        ┏┻━━━━┓       政宗    宗景    ┏━━━━━┫     ┣━━━┓ 清宗    誠宗    宗辰  成宗  ┃               ┃ 直宗              宗利
書物

「備前 浦上氏の研究」(1986年)新人物往来社 浦上元/著
備前に残る浦上成宗の子孫による研究書。したがって、宇喜多氏に関する記述は冷たく手厳しいものがある。
外部リンク

浦上宏の書斎
うらかみし うらかみし * うらかみし
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国武将一覧

?■山名祐豊
浦上政宗
浦上宗景
宇喜多秀家
宇喜多忠家
松田元輝
南条宗勝
尼子経久
尼子晴久
尼子義久
尼子勝久
穂井田元清
三村家親
三村元親
大内義長
陶晴賢
河野通直
来島通康
長宗我部盛親
吉良親貞
香宗我部親泰
本山茂宗
安芸国虎
一条兼定
立花道雪
立花宗茂
高橋紹運
秋月文種
城井長房
少弐冬尚
龍造寺隆信
蒲池鑑盛
鍋島直茂
松浦隆信
有馬晴純
大村純忠
阿蘇惟将
甲斐親直
相良義陽
相良頼房
深水長智
隈部親永
伊東義祐
肝付兼続
島津義弘
島津歳久
島津忠恒
島津家久
上井覚兼
新納忠元
土岐頼元
土岐頼芸
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
江馬氏
江馬氏(えまし)は、桓武平氏の一族。平経盛の遺児輝経が北条氏に仕えたのに始まるという。
概略

戦国時代に、江馬時経が登場し江馬氏は戦国大名として名乗りを上げる。時経は飛騨の北部に勢力を築き、国司姉小路家や三木氏(のち姉小路氏)とたびたび争った。時経の子の江馬時盛の代においては、飛騨は武田信玄の領地信濃国や、上杉謙信の領地越後国と接していて、時盛は武田氏に臣従する道を選び姉小路良頼との抗争を有利に進めた。だが、時盛が子の江馬輝盛と対立し暗殺されたのちは江馬氏は上杉氏に臣従するという道を選んだ。その後は織田氏の力を背景にした姉小路自綱の力が強大化し、江馬氏は衰退していく。1582年に本能寺の変が起きると、織田氏寄りだった姉小路氏と争ったものの、八日町の戦いに負け、輝盛は戦死し、戦国大名江馬氏は、事実上滅亡した。輝盛の後継とみられる江馬時政は金森氏を頼ったものの、のちに反乱を起こし殺害され、江馬氏は滅亡した。
系図

江馬時経  ┣━━━━━━┓ 時盛    麻生野直盛  ┣━━┓   ┃ 輝盛 信盛 麻生野慶盛  ┃      ┃ 時政    麻生野家頼
えまし
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国武将一覧

?■今川貞世
佐久間信栄
佐久間信盛
佐久間盛重
佐竹氏
佐々成政
斎藤義龍
斎藤氏
斎藤道三
斎藤龍興
細川氏
細川政元
細川藤孝
坂井政尚
雑賀孫一
三好義継
三好政康
三好長慶
三好長逸
山中鹿之介
斯波義銀
斯波義統
斯波氏
氏家直元
柴田勝家
若狭武田氏
秋山信友
秋田氏
渋川氏
小笠原氏
小笠原信嶺
松永久秀
松平信康
上杉景虎
上杉景勝
上杉謙信
上杉重房
上杉清子
上杉朝定
上杉頼重
織田信賢
織田信光
織田信孝
織田信行
織田信秀
織田信清
織田信忠
織田信長
織田信友
織田信雄
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
望月氏
望月氏(もちづきうじ)とは、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。
出自

滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏の中で、信濃十六牧の筆頭「望月の牧」を継承した一族と考えられる。滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、禰津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。
概要

鎌倉時代

望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曽義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月氏(もちづきうじ)とは、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。
出自

滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏の中で、信濃十六牧の筆頭「望月の牧」を継承した一族と考えられる。滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、禰津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。
概要

鎌倉時代

望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曽義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月国親の時代と考えられ、当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。義仲が越後の平家方を迎撃した寿永元年(1182年)9月の横田河原の戦いでは、木曾衆と甲斐衆(これは上州衆の誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録があり、この佐久衆の中心が古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定されている。また、義仲の四天王といわれた根井光親も望月氏傍流である。
義仲の没落後は鎌倉幕府の御家人となり、望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。文治4年(1188年)、奥州藤原征伐に従い、建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を、幕命により追討している。さらに建保元年(1213年)の和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち、信濃国和田を恩賞として賜っている。
室町時代

鎌倉滅亡後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児北条時行を擁して挙兵、足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け本拠地の望月城を喪うが、間もなく同城を回復し勢力を維持した。続く南北朝の争いでは一族の多くが南朝に与して戦い、後醍醐天皇の皇子で「信濃宮」と呼ばれた宗良親王を30年に渡って庇護した伊那郡の豪族香坂高宗も、望月氏の一族とされる。
戦国時代

戦国期に入り、望月氏も望月城(現:佐久市 旧:北佐久郡望月町)を拠点に活動をするが、隣国甲斐国の武田氏や、越後国の長尾氏(上杉氏)などの度重なる侵攻により衰退化し、天文12年(1543年)9月に当主・望月昌頼は武田に攻められ落ち延びた。一族の望月信雅は実弟の望月新六と共に武田に抵抗するが、同じく滋野氏の流れを汲む真田幸隆の仲介を得て武田氏に服従し、望月氏を継ぐことになる(信雅の名乗りは、臣従後に晴信の一字「信」を与えられたことによる)。更に望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を、武田信玄の弟・典厩信繁の嫁とし、信繁の子(望月信頼、望月信永)を信雅の養子とするなどして、名族望月氏を武田一門に組み込んでいった。
信雅引退(印月斎一峰と称す)の後は、望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として60騎を率いて本陣旗本として活躍する。しかし、その信永は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて討ち死する。その後、しばらくは信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれ、後に印月斎が当主に復帰する異例の状態となる。
天目山の戦いで武田家が織田家に敗れた際、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、望月権兵衛など難を免れた者達は、現在の静岡市北西部から山梨県南部町や身延町、早川町あたりの県境の山間に身を隠し移り住んだ。現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。
武田氏滅亡後、徳川家康配下の依田信蕃に従い徳川氏の傘下に入ったとされる。
甲賀望月氏(近江国)

望月氏が支配した「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行うことになっていた。その繋がりから望月氏と甲賀の地は古より関係があり、平安時代には平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり)が恩賞として近江国甲賀郡を賜っている。
戦国時代にはその末裔・望月出雲守が望月城(現:甲賀市 旧:甲賀郡甲南町)を築城するなどの記録が残され、信濃望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展していった。また一族の女忍者望月千代女(もちづきちよめ)が、信濃の望月氏当主・望月盛時に嫁入りし、武田信玄の手下として活躍するなど、交流は長きにわたり続いたと考えられる。
甲賀望月氏は、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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戦国武将一覧

?■和田惟政
蠣崎季繁
蠣崎季廣
蠣崎義廣
蠣崎氏
神戸具盛
後藤賢豊
遠藤直経
赤尾清綱
海北綱親
磯野員昌
藤堂高虎
不破光治
上杉定実
上杉憲政
北条氏康
佐野昌綱
長尾為景
伊達稙宗
伊達実元
黒田秀忠
長尾政景
村上義清
高梨政頼
北条高広
大舘晴光
神保長職
椎名康胤
長野業正
小山秀綱
那須資胤
佐竹義重
太田資正
三田綱秀
成田長泰
武田信繁
蘆名盛氏
本庄繁長
大宝寺義増
本願寺顕如
伊達政宗
大内義隆
毛利隆元
小早川隆景
赤松則房
黒田孝高
山名豊国
吉川経家
吉川元春
清水宗治
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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