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【2026/10/01 06:56 】 |
河野氏(こうのし / かわのし)
河野氏(こうのし / かわのし)は、守護大名、戦国大名となった伊予国(愛媛県)における有力豪族で、越智氏の流れを汲むという。
室町時代以降は代々湯築城を居城としてきた。一族の来歴を記した文書「予章記」はその虚実入り交じった不思議な内容(鉄人伝説など)で有名である。
他に2系統が存在する。
三好義長を遠祖とする、芥川長明の子、芥川季範が河野氏を称する。
桓武平氏 良文流 河越氏の流れを汲む河越重家が子孫が河野氏を称する。
概要

河野氏は河野郷(現在の松山市北条付近)を出自とする。当初は国衙の役人として活動していたと考えられているが、源平合戦で源氏に味方したことで鎌倉幕府の御家人となり西国の部将でありながら大きな力をつけた。その後、室町期に道後に湯築城を築き本拠を移した。根拠地の伊予が地政学的にも周辺諸国からの介入を受けやすい位置にあったこともあり内乱を繰り返すこととなった。その結果勢力を削ぐこととなり、戦国大名として変移できなかった典型的地方豪族といえる。河野宗家は、代々湯築城を拠点としていたが、河野水軍の本拠地は松山市三津、港山の一帯であった。この地理的な距離が宗家と分家(水軍衆)との亀裂を生んでいたとも思われる。なお河野氏の菩提寺は旧北条市の善応寺である。湯築城へ移転するまでは、善応寺の双子山城を本丸として支城に恵良山城、鹿島城、大山寺城、高縄山城などを有していた。
一時河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。これは、道前平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり、島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。有名な村上水軍は、形式的には河野氏の配下であるが、独自での活動も活発であり必ずしも従属関係にあったわけではない。伊予の水軍は大三島の大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであった。
平安・鎌倉時代

平安時代の末期は、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに勇将・河野通有が活躍してその武名を馳せ(河野の後築地・"うしろついじ"として有名である)、河野氏の最盛期を築き上げた。
南北朝・室町時代

南北朝時代には、四国へ進出し伊予へ侵攻した細川氏と争う。河野通盛は足利尊氏に従い伊予守護職を手にしたが、河野通朝は細川頼春の侵攻を受け世田山城で討ち死にした。子の通尭は九州に逃れ、南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。幕府管領となった細川頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、河野氏は南朝から幕府に帰服し、頼之追討令を受けて細川方と戦う。その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。
室町時代には度重なる細川氏の侵攻や予州家との内紛、有力国人の反乱に悩まされた。河野通久の時代に、河野通之の子通元の予州家との間に家督相続争いが起こった。この争いはその後も続き、管領職が代わる事に幕府の対応が変わるなど情勢が混迷を極めた。本家河野教通と予州家の河野通春の争いは瀬戸内を挟んだ細川氏、大内氏を巻き込んだものとなったが、応仁の乱のさなか、本家の教通が伊予守護職を確保し、通春没後に予州家は没落した。
戦国時代・安土桃山時代

戦国時代に入ると、予州家との抗争は終息したものの、有力国人の反乱や河野氏内部での家督争いが相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることはできなかった。16世紀前半の河野氏宗家の当主・河野通直(弾正少弼)のとき、家臣団や有力部将来島通康を巻き込む形で子の河野晴通と家督をめぐって争いが起こる。この争いは晴通の死で収束したが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。結果的に、来島村上氏や平岡氏、能島村上氏といった新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮は叶わなかった。
国内には喜多郡の宇都宮豊綱、大野直之、宇和郡の西園寺氏らの河野氏に属さない勢力が存在し、また、土佐の一条氏、豊後の大友氏、讃岐の三好氏との間に争いが続くが、同盟、縁戚関係を築いた安芸の毛利氏の支援を強く受けることとなった。その後も、長宗我部氏の侵攻や1581年の来島通総の離反など苦難は続いた。1585年、豊臣秀吉の四国征伐において、通直(伊予守)も小早川隆景の説得を受けて降伏し、通直は大名としての道を絶たれ、新たな伊予支配者となった小早川隆景の元に庇護された。そして1587年、通直が竹原で嗣子無くして没したため、大名としての河野氏は57代をもって滅亡した。
河野氏遺臣の再興のための戦い

1600年には関ヶ原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢(村上掃部頭元吉(村上武吉の長子)軍団)と、四国に残留した平岡勢が協同して、慶長5年8月28日に加藤嘉明の居城正木城に軍勢およそ二千余騎で攻め寄せるが、守将佃十成の計略にはまり、上陸地点である三津で夜襲を受け、完全に撃破されてしまった。これを「刈屋口の戦い」または「竹原崩れ」という。この後も荏原城などで残党が篭城するが、関ヶ原の戦いはすでに東軍勝利で終わったため、完全に駆逐されていった。
河野氏主要名簿

系図

┃     通信     ┣━━━┓     通久 別府通広     ┃   ┃     通継  一遍     ┃     通有     ┃     通盛     ┃     通朝     ┃     通尭     ┣━━━┓      通義  通之     ┃   ┃     通久  通元 ┏━━━┫   ┃ 通生  教通  通春 ┃   ┃   ┃ 明生  通宣  通篤 ┃   ┃   ┃ 通吉  通直  通存 ┃   ‖   ┣━━━┓ 通直  通宣  晴通  通宣     ‖      通直
晴通、通宣(左京大夫)については通直(弾正正弼)の実子と言う説有
通直(伊予守)のについては来島氏からの養子とする説もある。
庶家

河野氏主要家臣団(戦国期)

河野諸氏末裔

秋山好古
秋山真之
正岡子規
馬越恭平
河野淳吾(Jリーガー)
河野直人(Jリーガー)
大石尚子(衆議院議員)
参考文献

川岡 勉・西尾和美『伊予河野氏と中世瀬戸内世界 戦国時代の西国守護』(愛媛新聞社、2004年) ISBN 4860870255
川岡 勉『中世の地域権力と西国社会』(清文堂、2006年) ISBN 479240603X
川岡 勉『河野氏の歴史と道後湯築城』(青葉図書、平成4年)ISBN 4-900024-07-4
こうのし こうのし * こうのし こうのし
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

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