忍者ブログ
  • 2024.04
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • 2024.06
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2024/05/03 02:38 】 |
望月氏
望月氏(もちづきうじ)とは、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。
出自

滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏の中で、信濃十六牧の筆頭「望月の牧」を継承した一族と考えられる。滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、禰津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。
概要

鎌倉時代

望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曽義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月氏(もちづきうじ)とは、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。
出自

滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏の中で、信濃十六牧の筆頭「望月の牧」を継承した一族と考えられる。滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、禰津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。
概要

鎌倉時代

望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曽義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月国親の時代と考えられ、当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。義仲が越後の平家方を迎撃した寿永元年(1182年)9月の横田河原の戦いでは、木曾衆と甲斐衆(これは上州衆の誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録があり、この佐久衆の中心が古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定されている。また、義仲の四天王といわれた根井光親も望月氏傍流である。
義仲の没落後は鎌倉幕府の御家人となり、望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。文治4年(1188年)、奥州藤原征伐に従い、建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を、幕命により追討している。さらに建保元年(1213年)の和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち、信濃国和田を恩賞として賜っている。
室町時代

鎌倉滅亡後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児北条時行を擁して挙兵、足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け本拠地の望月城を喪うが、間もなく同城を回復し勢力を維持した。続く南北朝の争いでは一族の多くが南朝に与して戦い、後醍醐天皇の皇子で「信濃宮」と呼ばれた宗良親王を30年に渡って庇護した伊那郡の豪族香坂高宗も、望月氏の一族とされる。
戦国時代

戦国期に入り、望月氏も望月城(現:佐久市 旧:北佐久郡望月町)を拠点に活動をするが、隣国甲斐国の武田氏や、越後国の長尾氏(上杉氏)などの度重なる侵攻により衰退化し、天文12年(1543年)9月に当主・望月昌頼は武田に攻められ落ち延びた。一族の望月信雅は実弟の望月新六と共に武田に抵抗するが、同じく滋野氏の流れを汲む真田幸隆の仲介を得て武田氏に服従し、望月氏を継ぐことになる(信雅の名乗りは、臣従後に晴信の一字「信」を与えられたことによる)。更に望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を、武田信玄の弟・典厩信繁の嫁とし、信繁の子(望月信頼、望月信永)を信雅の養子とするなどして、名族望月氏を武田一門に組み込んでいった。
信雅引退(印月斎一峰と称す)の後は、望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として60騎を率いて本陣旗本として活躍する。しかし、その信永は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて討ち死する。その後、しばらくは信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれ、後に印月斎が当主に復帰する異例の状態となる。
天目山の戦いで武田家が織田家に敗れた際、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、望月権兵衛など難を免れた者達は、現在の静岡市北西部から山梨県南部町や身延町、早川町あたりの県境の山間に身を隠し移り住んだ。現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。
武田氏滅亡後、徳川家康配下の依田信蕃に従い徳川氏の傘下に入ったとされる。
甲賀望月氏(近江国)

望月氏が支配した「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行うことになっていた。その繋がりから望月氏と甲賀の地は古より関係があり、平安時代には平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり)が恩賞として近江国甲賀郡を賜っている。
戦国時代にはその末裔・望月出雲守が望月城(現:甲賀市 旧:甲賀郡甲南町)を築城するなどの記録が残され、信濃望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展していった。また一族の女忍者望月千代女(もちづきちよめ)が、信濃の望月氏当主・望月盛時に嫁入りし、武田信玄の手下として活躍するなど、交流は長きにわたり続いたと考えられる。
甲賀望月氏は、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。
* *
----------------------------------------------
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国武将一覧

?■和田惟政
蠣崎季繁
蠣崎季廣
蠣崎義廣
蠣崎氏
神戸具盛
後藤賢豊
遠藤直経
赤尾清綱
海北綱親
磯野員昌
藤堂高虎
不破光治
上杉定実
上杉憲政
北条氏康
佐野昌綱
長尾為景
伊達稙宗
伊達実元
黒田秀忠
長尾政景
村上義清
高梨政頼
北条高広
大舘晴光
神保長職
椎名康胤
長野業正
小山秀綱
那須資胤
佐竹義重
太田資正
三田綱秀
成田長泰
武田信繁
蘆名盛氏
本庄繁長
大宝寺義増
本願寺顕如
伊達政宗
大内義隆
毛利隆元
小早川隆景
赤松則房
黒田孝高
山名豊国
吉川経家
吉川元春
清水宗治
PR
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
<<伏見城の戦い | ホーム |
有り難いご意見
貴重なご意見の投稿














虎カムバック
トラックバックURL

<<前ページ | ホーム |