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【2024/05/17 17:26 】 |
少弐氏
少弐氏(しょうにし)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家の秀郷の子孫と称する武藤氏の一族。
経歴

出自

少弐氏は、武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳である。その意味では、少弐氏は、資頼の養父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになろう。
平安時代末期から鎌倉時代

武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この源頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。
鎌倉時代の文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)に元寇が起こり、資能は子の少弐経資や少弐景資らとともに戦い、孫の少弐資時は弘安の役の時壱岐で討死している。戦後には筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬など北部9州における最大の守護大名にまで成長して、少弐氏の最盛期を築き上げた。
鎌倉時代後期

少弐資能の死後、経資と景資との間に家督をめぐっての争いが起り、弘安8年(1285年)に鎌倉で御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱が対立して霜月騒動が起こると、景資は泰盛の子の安達盛宗とともに、頼綱側についた経資と戦い敗死する(岩門合戦)。その後、鎮西探題が設置されて北条氏の力が西国にも及ぶようになると、少弐氏もその配下とされ雌伏のときをむかえる。
鎌倉時代末期の元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、少弐貞経は大友氏らとともに討幕運動に参加し、鎮西探題を攻撃する。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始され、新政から離反した足利尊氏が建武3年(1336年)に京都から駆逐され、九州へ逃れると、貞経の子の少弐頼尚は尊氏を迎えて赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した肥後国(現在の熊本県)の菊池氏が大宰府を襲撃して父の貞経を滅ぼした。頼尚は足利方とともに多々良浜の戦いにて菊池武敏らを破った。
南北朝時代

南北朝時代には、頼尚は九州における足利勢力の九州探題一色範氏とも衝突する。足利家の内紛から観応の擾乱が発生すると、頼尚は九州へ逃れた足利直義の養子である足利直冬に娘を娶わせて接近する。多々良浜の戦いで敗北した菊池氏は南朝が征西将軍として派遣した懐良親王を奉じて勢力を拡大しており、少弐氏は正平14年/延文4年(1359年)の筑後川の戦いで征西府・菊池軍に敗れて大宰府を奪われる。
室町時代

九州における南朝方の勢いが盛んになると頼尚の子は北朝方と南朝方に分かれそれぞれに味方した。しかし、北朝方についた少弐冬資が、新たに九州探題として派遣された今川貞世(了俊)により水島の陣で謀殺されると、南朝方についた少弐頼澄の下で一致団結し反今川勢力として活動した。南朝の勢力が衰退し、今川貞世が帰国した後は、代わって九州探題に就任した渋川氏の援護と称して周防の大内氏が北九州にたびたび侵攻するようになり、少弐氏は豊後の大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗し、一時は大内盛見を討ち取って勝利をしたこともあったが、その後はたびたび敗北し、少弐満貞、少弐資嗣、少弐教頼などが戦死している。
戦国時代

戦国時代に入ると、大内氏の侵攻はますます激しくなった。少弐氏は大内氏の侵攻を懸命に防いでいたが、次第に劣勢となり、第15代当主・政資が大内氏によって討たれて一時滅亡する。後に政資の子である少弐資元が第16代当主として少弐氏を再興するも、大内氏の優勢を動かすことは困難であり、拠点を肥前に移さざるをえなくなる。当時の肥前は九州千葉氏が支配していたが、その内紛に乗じて同氏の領地を奪い、さらに大内氏が中央での政争や出雲の尼子氏との抗争に忙殺されている隙をついて一度は勢力を取り戻した。だが、今度は家臣の龍造寺家兼の台頭と謀反(一説には龍造寺氏は九州千葉氏の旧臣ともいう)にあって次第に衰退してゆく。少弐資元は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆に降伏した。しかし、義隆に欺かれて自害を余儀なくされ、少弐氏は一時、滅亡した。
滅亡

資元の子で第17代当主を継いだ少弐冬尚は少弐氏を再興したが、龍造寺氏の謀反に対しては、家臣の馬場頼周に龍造寺氏討伐を委ね実権をなくしていく。家兼の後を継いだ龍造寺隆信もまた謀反の立場を鮮明にして、冬尚は永禄2年(1559年)、勢福寺城を隆信に攻められて自害を余儀なくされた。これにより、鎌倉時代から続く名族・少弐氏は完全に滅亡したのである。
少弐冬尚の弟・少弐政興は永禄6年(1563年)から馬場鑑周など旧臣の支援のもと、少弐氏再興戦を有馬晴純・波多鎮・大村純忠・多久宗利・西郷純尚などの肥前の武将達と共に、龍造寺隆信と戦う。
しかし、永禄7年(1564年)に龍造寺勢の猛攻で肥前中野城に籠るも馬場鑑周は降伏する。その後、政興は大友氏の支援を受けながらなおも隆信と戦うが、元亀3年(1572年)に隆信によって肥前を追われ、少弐氏再興の野望は潰えた。
少弐氏一族

武藤資頼【初代】
少弐資能【2代】
少弐経資【3代】
少弐景資
少弐盛経【4代】
少弐貞経【5代】
少弐頼尚【6代】
少弐直資【7代】
少弐冬資【8代】
少弐頼澄【9代】
少弐貞頼【10代】
少弐満貞【11代】
少弐資嗣【12代】
少弐嘉頼【13代】
少弐教頼【14代】
少弐政資【15代】
少弐高経
少弐資元【16代】
少弐冬尚【17代】
少弐政興(基本的に政興は当主として認められてはいない)
系譜

凡例 太線は実子。細線は養子。
(武藤氏、少弐氏)      頼平      │      資頼      ┃     資能      ┣━━━┓      経資  景資      ┣━━━┓      盛経  資時      ┣━━━┓      貞経  資法      ┣━━━┓      頼尚  頼賢      ┣━━━┳━━━┓      頼澄  冬資  直資      ┃      貞頼      ┣━━━┓      満貞  頼房      ┣━━━┳━━━┓      教頼  嘉頼  資嗣      ┣━━━┓      政資  胤資      ┣━━━┓      資元  高経      ┣━━━┳━━━┳━━━┓      冬尚  胤頼  政興  元盛
庶家

鍋島氏
馬場氏
筑紫氏
横岳氏
朝日氏
少弐氏方の人物

少弐支族

朝日氏
朝日資法
横岳氏
横岳頼房
横岳資貞
横岳資誠
馬場氏
馬場頼周
馬場政員
馬場鑑周
筑紫氏(支族ではないとする系図もある)
筑紫教門
筑紫満門
その他

肥前小田氏
小田資光
小田政光
小田鎮光
小田賢光
神代氏
神代勝利
神代長良
神代家良
江上氏
江上元種
江上武種
多久氏
多久宗時
多久宗利
宗氏
宗貞盛
宗盛国
宗貞国
その他
高木鑑房
執行種兼
関連氏族

渋川氏
大内氏
九州千葉氏
龍造寺氏
外部リンク

武家家伝_少弐氏
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国武将一覧

?■石川高信
小野寺輝道
戸沢盛安
葛西晴信
大崎義隆
斯波詮高
伊達晴宗
伊達輝宗
伊達成実
片倉景綱
田村清顕
大宝寺義氏
相馬盛胤
岩城親隆
佐藤好信
二階堂盛義
金上盛備
佐竹義宣
江戸忠通
小田氏治
宇都宮国綱
宇都宮広綱
結城晴朝
水谷正村
大関高増
大田原綱清
千葉胤富
里見義堯
里見義頼
上泉信綱
由良成繁
北条早雲
北条氏綱
北条氏政
北条幻庵
北条氏秀
北条綱成
石巻康保
粟屋元隆
宇佐美定満
斎藤朝信
柿崎景家
直江景綱
直江兼続
新発田重家
椎名長常
畠山義綱
遊佐続光
長連龍
温井景隆
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高梨氏
高梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。
平安末期から源平合戦

高梨氏は、同じ北信濃の名族清和源氏井上氏流を名乗り、源家季の息子高梨盛光の末裔であると称している。しかし系図には疑うべき余地も多く、実際には源平合戦の際は井上一族では無く北安曇の仁科氏らと行動を共にしていたので、当時の慣習から見て別の一族であった可能性がある。しかし、高梨氏は仁科氏と同じく中原兼遠の婿になっていたので、この婚姻関係によって執るべき軍事行動が変化(男系親族井上氏に従わず、外戚中原氏へ加担)したということも考えられる。
高梨高信・高梨忠直らは源義仲傘下として越後から南下した城資茂率いる平家方を破り、その後も源義仲に最後まで従ったと思われ、高梨忠直は京都の六条河原で刑死した記録が残されている。また、建久元年(1190年)頼朝が上洛した際の御家人の中に高梨次郎の名が見え、鎌倉時代も御家人として存続していた事が伺われる。その後は保科氏らと婚姻関係を結びつつ北方へ領土を拡大していった。
南北朝時代

続く南北朝時代には埴科郡に割拠する有力豪族村上氏と共に北朝方に属し、正平6年/観応2年(1351年)6月に高梨経頼は小笠原為経・小笠原光宗らと直義党の諏訪直頼の代官祢津宗貞と野辺原(須坂市野辺)で戦い、8月には富部河原、善光寺、米子城(須坂市米子)で戦った。また守護の斯波義種に反抗して元中4年/嘉慶元年(1387年)善光寺に村上頼国、小笠原清順、長沼太郎らと挙兵し5月に平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めて漆田原(長野市中御所)で戦い、8月には守護代の二宮氏泰が篭城する横山城を攻め落とし、続いて生仁城(千曲市雨宮)も攻めた。北信濃の南朝方香坂心覚(根津一族と思われる香坂氏6代目)との抗争にも高梨五郎・高梨時綱らの名前が出てくる。
室町時代中期

更に応永7年(1400年)に信濃守護職小笠原長秀との間で行われた大塔合戦では、高梨氏や井上一族など北信濃衆は500騎を動員しており、この数は信濃国人衆の筆頭(信濃惣大将)である村上氏と同数で、東信濃の名族海野氏の300騎を上回る。応永10年](1403年)に細川慈忠が守護代として入国した際には村上氏や大井氏、井上氏らが従わず段の原や生仁城で戦ったものの敗走し、翌年12月には高梨左馬助朝秀とも合戦となった。このように南北朝時代に善光寺平北部地域一帯から越後の一部にまで及ぶ勢力拡大に成功した様子が伺われる。室町時代には、高梨惣領家と山田高梨・中村高梨・江部高梨を併せて高梨四家と呼ばれていたと記されている(「上高井歴史」より)。
地理的に近い越後にも所領があったことから越後の勢力の影響を高梨氏も受けるようになる。寛正4年(1463年)12月に、信濃守護職を得た越後守護上杉房定の一族上杉右馬頭が高井郡高橋(中野市西条)に攻め入った際には、高梨政高がこれを討取ってしまっている。高梨氏は村上氏と共に、北信濃の一大勢力として認識されるようになる。
戦国時代以降

高梨政盛の代に、越後守護代の長尾氏と関係を強めるため、長尾能景に娘(政盛と能景は同年代であるため、政高の娘である可能性が高い)を嫁がせるが、その娘が産んだ長尾為景(上杉謙信の父)が越後守護代となり、室町末期には越後で守護上杉家と長尾家の争いが起きると、高梨氏もそれに巻き込まれることになった。
永正4年(1507年)、為景が越後守護上杉房能を殺害する際に支援している。また房能の兄で関東管領上杉顕定が為景を一旦は放逐するが、永正7年(1510年)の長森原の戦いに為景方の援軍として出陣して顕定を敗死させている。政盛は永正10年(1513年)頃までに善光寺平北部の中野郷を奪取して本拠地と定め、高梨氏の全盛期を築いたとされている。しかしその年のうちに政盛が死去、越後では為景と新守護上杉定実の争いが起き、近隣の井上一族を始め北信濃の国人衆が上杉方に付き、唯一の長尾方として孤立していく事となる。更に善光寺平を手中に収めようとする村上氏との対立もあり、以後高梨氏は弱体化していった。
それでも政盛の孫の高梨政頼の頃まで独立性を保ってきたが、村上氏を撃破した甲斐国の武田晴信の侵攻を受け、弘治年間(1555 - 1558)に本拠地中野郷から信越国境に近い飯山郷まで後退した。その後、長尾景虎(上杉謙信)の支援を受けて一時的に所領を取り返したが、その後武田と長尾(上杉)の対立(川中島の戦い)の中で他の北信濃国人衆と共に上杉家の家臣化が進んでいった。
武田氏の滅亡後、北信濃を任された森長可が本能寺の変により撤退、代わって上杉景勝が進出するのに伴って高梨氏は旧領に復帰することができた。その後上杉家は、会津・米沢藩と転封を重ねるが、政頼の子・高梨頼親もこれに従っている。彼の子孫は米沢藩士として江戸時代に代々続いた。
この系統の他に、尾張や丹後または相模国などに移住した高梨氏もあったと言う。現在の高梨家の末裔として認知されている一族は尾張高梨家出身である。
歴代の人物

高梨盛光
高梨忠光
高梨高信
高梨忠直
高梨朝定
高梨政高
高梨政盛
高梨澄頼
高梨清秀
高梨政頼
高梨頼治
高梨頼親
高梨秀政
高梨頼清
関連項目

高梨氏館
於フ子
関山慧玄
たかなし たかなしし たかなしし *
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国武将一覧

?■■畠山氏
富田長繁
武田義統
武田元綱
武田元明
武田国信
武田氏
武田氏信
武田勝頼
武田信栄
武田信賢
武田信玄
武田信光
武田信実
武田信重 (安芸武田氏)
武田信繁
武田信武
武田信廣
武田信時
平手政秀
平手汎秀
平清盛
平頼綱
別所長治
豊臣秀吉
北条義時
北条顕時
北条高時
北条氏
北条氏直
北条重時
北条政子
北条貞時
北条時行
北条時宗
北条時茂
北畠具教
北畠顕家
明智光秀
明智秀満
毛利輝元
毛利元就
木曽義昌
林秀貞
林通具
六角義郷
六角義賢
六角義治
六角義秀
六角定頼
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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